論理的思考に対する感覚論
絵本の赤ずきんちゃんから読み取れることは何か
1. 赤ずきんと呼ばれる女の子がいた。彼女はお使いを頼まれて森の向こうのおばあさんの家へと向かうが、その途中で一匹の狼に遭い、唆されて道草をする。
2. 狼は先回りをしておばあさんの家へ行き、家にいたおばあさんを食べてしまう。そしておばあさんの姿に成り代わり、赤ずきんが来るのを待つ。
3. 赤ずきんがおばあさんの家に到着。おばあさんに化けていた狼に赤ずきんは食べられてしまう。
4. 満腹になった狼が寝入っていたところを通りがかった猟師が気付き、狼の腹の中から二人を助け出す。
5. 赤ずきんは言いつけを守らなかった自分を悔い、反省していい子になる。(Wikipedia先生より)
狼っていう不審者にそそのかされた赤ずきんが悪い、とか、狼を倒す猟師みたいな正義の心を持つことが大事、とか
なんとか物語の裏の意味を考えようとすれば理屈付はできる
赤ずきんちゃんは絵本の話だけど、ボクたちが日常を生きていても、「これなんで起こったんだろう?」みたいな問いかけ、ってけっこうある。
プロジェクトがうまくいかなかったら、うまくいかなかった理由を考えるとか、
話し合いがうまくいかなかったら、その原因を考える、とか
いわゆる「振り返りをする」「PDCA回す」とかいうやつ。物事から教訓を得て、次につなげる、みたいなやつ。
これ、本当に意味あるのかな?ってたまに思う。
そんな世の中全部うまくつながって、言語化できるようになってるのかな?って。
赤ずきんちゃんが食べられちゃったのは、偶然狼がいたからで、プロジェクトがうまくいかなかったのは時の運で、話し合いがうまくいかなかったのは、みんなが全力で話し合った結果だったりする。
それを「もしかしたらこの出来事は、こういう意味があったんじゃないか」とか考えるのは、どんどん現実から離れて、どんどん空論に飛び立ってくような、地から足が離れていくような、そんな感覚をたまに感じる。コンサルだからそんなことばっかしてんだけどさ。
たまにはただ起こった出来事を受け止めるだけ、てのもいいんじゃないか。生きるのにそんな難しく考えることばっかしないでいいんじゃないんじゃないか
ちなみに、赤ずきんちゃんの話のオチの無さを全力で難しく言い換えるとこうなるらしい。
生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。
(「文学のふるさと」坂口安吾)
まぁ起こった物事に「こうすればよかった」みたいに難しく考えるのはある種の救いを求めるようなもんだと思うんだけど、
たまには、ただ何も考えずに起こった物事を「そんなもんか」って受け入れるのもいいってことだろう。
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